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真面目に変わっている人の考えている事
日頃、疑問に感じた事を自分なりに考えて書いていきす。浅学ゆえ多々至らない点があるとは思いますが、一緒に考えたり、間違いをご指摘されるとありがたいです。まずはカテゴリーの「はじめに」を。
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切腹とは何だったか?
赤穂浪士事件がよくこの島国では印象的だとは思う。君主に対して切腹してまで貫く忠心には多くの人が心うたれる。ある本に書いてあったように当時、権力につく側に不正などで下の者が多くが泣き寝入りのようなことが多かったし、金銭主義が隆盛ではあろうし、過去の忘れ去られようとしている武士を見て感嘆する人もいたろうし、武士が道徳模範だけに庶民が感激するのは確かだ。
 その事件当時の人は本当にそれだけで感嘆したのだろうか?というのは現在の島国の人はなぜ心打たれるたのだろうか?というこである。その現象として事件後から取り入れられている歌舞伎は別として、今にも新たに時代劇として伝えられただろうか?それは今、あるいは武士階級がなくなったその後は事件当時の時代背景を知って感動しているのだろうか?そういう理由は別にして伝わるには否ではなかろうか?あの江戸の事件だけを考えるとわからなくなる。切腹という行為は主君対家臣のみの為には存在しえなかった。
 インテリ達の西洋的な見方で目で見たまま自殺ととらえるのは一方的ではないのか?現状立たされている状況に適応できなくなったといえば共通かもしれないが。切腹する彼らの内的理由は違うだろう。敵に首をとられるぐらいなら自分で命絶とうという意地があってする人もいたろうし、戦で負けを認めて潔く自ら命絶とうという人もいたろう。しかし、それだけではここまで多くの人は感動すまい。私達が心打たれるそれは何か?このような人の切腹ではないか?切腹する理由はいろいろあれ、その理由の為にある行為をやったていたのだと死をもって、その周りの人に自分の誠を示すことであり、己に誠であろうとする心だ。切腹する本人は死を覚悟するからこそ、よりいっそう動機は純化する。目撃する側は死が誰にも恐怖的な対象であることによりいっそう動機は純化しているのを感知する。それだけに視覚的にも見てそうとらえていただろう、または今も多くの人はとらえているのだろう。あくまで何か大事な物の為に一途に思う純粋な心にうたれるのだろう。誠というものに。
 方法は違えど戦中これが神風特攻隊へと受け継げれていく。大陸の国でのあのテロのような宗教の戒律に対する行為的な死(死によって報われる)のものとは異質である。この島国、独特のものだ。
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色白
色白について思うことを書く。欧米人の色白(いわゆる白人)は寒い時や何かで運動なりしている時は肌に赤みがある。その表れ方がいかにも立体的なものを感ずる。とともにいかにも生きた生き物という感じを受ける。この国の色白な人は寒い時や何かで運動なりしている時はピンク色っぽく色白さが保たれている。その白さが皮膚という感じがしなく血管さえわからないほどの透き通るような白である。生き物という感じがしない。自然的な、いかにも自然にある霧のごとくものを感ずる。人と自然との一体という印象である。私は見ていると神秘的な心地良い感じになる。
判官贔屓とは?
 私たちの国に判官贔屓とは、はたしてあったのだろうか?辞書に「弱者に対する第三者の同情や贔屓。」とある。ネットで検索していると、熱く語っている人の結論が弱者の人たちが強者を貶めて病的平等にしようとするもので、社会主義者だと断定した話になっていてあきれてしまった。
 私が「ああそうだ。」と感じた人がいる。その作家は言う「この国に判官贔屓はなかった。」と。判官贔屓に見える人の共通にあるのはある特定の一つの信念(大義、思い)なりである。そこに行動の理由はただ一つで、それ以外の理由はないという心情である。
 ならばどうしたらそれは周りの人に伝えられるか?成功、勝利より失敗、敗北することだ。成功、勝利する人では思いがあったとしても自分をかけずに計算高くやったかもしれないという思いははずせない。しかし、逆の失敗、敗北は第三者に失敗、敗北することによって心情が確実にわかるのである。
 これはこの国の人たちがこの行動の理由の「純粋さ」に心を打たれるのだ。これはこの国、独特の心のあり方といっていいようだ。この作家は今は生きていない。生前に西洋文化にかぶれてもいいが、この独自の精神を誇りにして生きろと言った。この作家の言葉を聞いて、あなたはどう感じる?
島国の人の判断の一つの指針との関連話
ある評論家の興味深い文があった。この国で革命があったとして、何年か後にしてこの国の人は革命があったことさえもわからないだろうと書いていた。私は戦後の特徴(戦前の価値観を切り捨てたことのみ)とは思えない。私に美術観はないが違うある評論家がこの島国の各芸術(歌舞伎、狂言、能、建築様式など)はその時代ですでに完成されていて次世代に伝えるものがないと言う。この国の時間の感じ方を表しているのではないだろうか?時間という流れを座標に表すとして欧米の国の人は時間が流れる(積年する)ほど+へと数字が積み重なるが、この国の人達は現在の時間の座標が違う他の所から時間の座標がやってきて、それが現在の時間座標になる感じではなかろうか?それがこの国はじまって以来のことではないだろうか?
島国を知ることのやっかいさ
これほどやっかいなことはない。なぜって?私達の国が島であることが根本的なやっかいさを招いている。いや、それを理解してくれない他国が。日本論を読む度にほとんどが外国の彼らの価値観できってしまっているのに気付くと思う。必然、私達は精神欠陥であると断定される。共通の常識なり価値観が多数が正常とされるだけに。国内では価値観が逸脱している一人の人なら言えるが、国(多数の人)ではその道理が認められない。違うとなぜそうなるかは多数の国が大陸(大陸にいただけに他民族と交流あるいは民衆同士でお互いの価値を違いを長年、意識していただけに、多少の常識【価値観】に共通性がうかがえる)と島国(交流していたのは少数の特権階級や商人達、少数だけに他民族との価値、常識に共通性がでない。)の違いだ。他に島国があるではないかというが、ほとんどヨーロッパが征服して大陸の常識、価値観に染まった。しかし、個人でも自分を知る時、他者達を知る必要があるように私達を考える時、どうしても外国を知る必要がある。しかし一度、そのまま外国の価値観できるのではなく、外国の価値観で私達の共通性格の輪郭をうきあがらせ、そのこの島国の人らしさを何も考えず無私のようにこころを落ち着かせてとらえるんだ。子供の頃、理性など重んじなかった頃の心でさかのぼってとらえるんだ。そこから私達の共通の価値観なりを救い出すほかはない。知性と感受性がないと難しい至難の作業にはなるが。もう一つのやっかいさは私達が言葉によって共通の価値観を表さなかったことにもある。面白いことは対外国のニュースなりで自国の話が出ると、あまり詳しく分析なり本なり読んでいない人が突然に無意識的に「日本は島国だからね~。」と言う。意識的に言わない非常に感覚的に。知ってるか知らないかの狭間の意識なのだろう。しかし、こういう彼らの方が学者なり芸術家の連中よりも私は賢いと思う。
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