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真面目に変わっている人の考えている事
日頃、疑問に感じた事を自分なりに考えて書いていきす。浅学ゆえ多々至らない点があるとは思いますが、一緒に考えたり、間違いをご指摘されるとありがたいです。まずはカテゴリーの「はじめに」を。
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洞察というものの発生
辞書に物事の本質を見通すこととある。この一種の天賦の才のように使用されるが、私の考えはこうだ。同じ常識(知識も含む)を共有する人達がいる時、その人達からから一歩、身をおける人物がそれをえる。いや、気付くことになる、または気付かされることになる。一歩、身をおける人物とは精神的に一人になれる人である。精神的に一人になれる人とは、何かに没頭できる人、己の価値観で生きる人、天邪鬼な人達である。なぜって?彼らだけ、その周りの人と精神的に共有する時間を空間をさくからである。そこに周りの人達との常識のずれが生じる。そのずれのおかげで気付く、あるいは気付かされるのだ。必然、同時代にこの気付く人は人数が限定される。多人数(共有意識を持った)対一人の関係になるのだから。
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言語についての興味深いことのつづき
あの言葉しか書かれていない本(その言葉の単なる紹介だけだった)だったので、私自身が分析してみた。当然、この国の語の話になる。外国語は英語しか学校で習っていないし、外国に行ったこともないので稚拙な分析になる。
 この国の語は上から下に文章を書いたり、左から右へと書く。昔(明治ぐらい?)だと右から左に(看板などで当時の文章はわからないが)書くようだ。日本語が漢字とひらがなとカタカナ、まあ若い人は英語も混ぜることもある。動詞が後にくる。まあ、例外はあるが。その例外も重要。文によっては読み手が主語をどこで区切るか(主語の形容の仕方で)で意味が変わる。主語を必要としないことが多い。個々の単語にすき間なし。過去文、現在文、未来文はいっしょくた。
ここまでくるとこの島国の人の気性(決まりごとが少なく自由、我がない、決め事があやふや、一定の価値観もたない相対価値、物事【本質】が見えない、一つの言葉の定義に無関心、無内容)を表している。
 英語は例が単純ですみませんが、「I can speak Japanese.」←で考察しよう。必ず左方向から文章を書く。そしてIとcanとspeakとJapaneseの単語でできてるが、各々の単語のすき間(スペース)がある。ほとんどの文、発言に主語がかならずつく。主語が動詞のすぐ後ろ。過去文は過去文でまとめる。(現在文、未来文も同様。)主語、動詞、目的とはっきりした役割の語がある。
そして欧米人の気性(主体性、主語が前だから我の強さと誰が行うか、そのすぐ後ろに動詞がつくから態度として何がしたいか、スペースがあるだけに単語の言葉の定義がはっきりしてる、論理でしか理解しない、原因と結果という相関関係的思考、知的思考活動【ある知識をいわゆる分割して知識を作る】をする)を表している。
自由とは?言葉たらずで補筆(2度目の改訂)
何か表現が足りない(的を得ないので。)
>人は一人では生きていけない。生きていくには最低限の関係がいる。
それを誰も気付かず、求めるのは、たんなる一人相撲じゃないか。

物理的、生物的、民族的なという意味あいで。
しかし、自由というのが意識の中で感じるものだからやっかいなのだが。限界をしらない。結果、自分で自分を抑圧するという精神的自殺行為(自傷的な)であり、本当に敵はいないのにお互いに敵を捏造して争うことになる。
興味深い話のつづき
今でもいるのです。それがこの島国の人なのかもしれません。会社なり、家族、学校でも組織でこの現象はあります。困ったことは、この島国の共同体の時、いわゆる反日と言われたり、左翼と言われる方です。ある意味、この島国の人の内面性と闘わなくてはなりません。それとこの精神機能があるのは和を貴ぶためなのでしょう。この島国の村や町、社会的共同体の非難された一人の人間なりを責めれば、町と町、社会的共同体と社会的共同体、国と国の争いを避けれます。国内ではいいのですが対外国関係の時、この島国の人はこの気性を意識化せざるをえない。なぜなら今の時点で中国、韓国、北朝鮮の関係時に出てる気性だから。これからは他国でもありえるが。
言語についての興味深いこと
ある人類学者が「言語というものは、その民族の文化を表している。」と言う。勘のいい人ならこの一言でわかる。
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