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真面目に変わっている人の考えている事
日頃、疑問に感じた事を自分なりに考えて書いていきす。浅学ゆえ多々至らない点があるとは思いますが、一緒に考えたり、間違いをご指摘されるとありがたいです。まずはカテゴリーの「はじめに」を。
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この島の思考論理
今年はサッカーの親善試合でヨーロッパクラブからこの島国のクラブとの試合があった。この国の選手がヨーロッパ選手の顔に唾を吐いたという一騒動があった。興味深いのはその後の互いの発言だ。ヨーロッパ選手は顔に唾を吐いたと主張。この島国の選手は顔に唾は吐いていないが話た時に唾が当たったかもと発言した。それを聞いてそのヨーロッパ選手の国のマスコミは猛講義。ヨーロッパなりの国が人との関係で人の意図より視覚的、現実としてあった態度を敬う感じは私は強く持った。この島国の選手に限らずこの島国の人達は確率として方向性があれば口に出してしてしまう。相手の国の言語なりにこのやったともやってないともとれる動詞がなかったなら彼らの母国語で断定へと変わる。それと自分の国で世界が周っている意識はこの島国の人達より強いのでなおさら唾を吐いたのは真実だとなる。この島国の先の大戦後の戦後処理発言にも共通性がうかがえる。
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島国の人の判断の一つの指針との関連話
ある評論家の興味深い文があった。この国で革命があったとして、何年か後にしてこの国の人は革命があったことさえもわからないだろうと書いていた。私は戦後の特徴(戦前の価値観を切り捨てたことのみ)とは思えない。私に美術観はないが違うある評論家がこの島国の各芸術(歌舞伎、狂言、能、建築様式など)はその時代ですでに完成されていて次世代に伝えるものがないと言う。この国の時間の感じ方を表しているのではないだろうか?時間という流れを座標に表すとして欧米の国の人は時間が流れる(積年する)ほど+へと数字が積み重なるが、この国の人達は現在の時間の座標が違う他の所から時間の座標がやってきて、それが現在の時間座標になる感じではなかろうか?それがこの国はじまって以来のことではないだろうか?
「はじめに」で書いたことについて
「わたし(あなた)の存在」を書くにいたっては私は非常に迷った。自分自身の内部の深奥をさらけだすことは内外の国を問わず嫌なことだろうが、それ以前に私の人生の汚点である。理由は書かない。感じる人が感じてもらえばいい。言えるのはこの国で育んだ常識に逸脱してしまった。それがなくなりつつあるだけに気づかないだろうけれど。しかし、あの文は私の考えをこれから書き綴っていくために用意したものだ。それだけに私個人の心境を読みとるより行きつく論理を読んで欲しい。おおまかであるから詳細にするため色々と考えてきたことを書く。掲載するすべての話は互いに連関しあっている。その今の思考結果(私の思考論理にこの国の現実に正しくあっていればの話だが)はこの島国を好きな者、あるいは自己の存在を肯定する者、自分に誇りが高い者にとって嫌な結論に達する(この島国の独自の感受性で育った人達すべてに言えるけれど)。その結論は私の中で22歳のあの頃から今も変わらない。多くの人に読んでもらいたいという気はさらさらない。勇気がある人だけが読めばいいと考えている。自暴自棄になられても非常に迷惑だし、周りの人には酷だと考えているから。知らぬが仏だ。根底を覆す反論があれば嬉しいかぎりだ。私はその人に救われるのだから。。それでも、己で自分を救おうと思索するのを止めるわけにはいかない。
島国を知ることのやっかいさ
これほどやっかいなことはない。なぜって?私達の国が島であることが根本的なやっかいさを招いている。いや、それを理解してくれない他国が。日本論を読む度にほとんどが外国の彼らの価値観できってしまっているのに気付くと思う。必然、私達は精神欠陥であると断定される。共通の常識なり価値観が多数が正常とされるだけに。国内では価値観が逸脱している一人の人なら言えるが、国(多数の人)ではその道理が認められない。違うとなぜそうなるかは多数の国が大陸(大陸にいただけに他民族と交流あるいは民衆同士でお互いの価値を違いを長年、意識していただけに、多少の常識【価値観】に共通性がうかがえる)と島国(交流していたのは少数の特権階級や商人達、少数だけに他民族との価値、常識に共通性がでない。)の違いだ。他に島国があるではないかというが、ほとんどヨーロッパが征服して大陸の常識、価値観に染まった。しかし、個人でも自分を知る時、他者達を知る必要があるように私達を考える時、どうしても外国を知る必要がある。しかし一度、そのまま外国の価値観できるのではなく、外国の価値観で私達の共通性格の輪郭をうきあがらせ、そのこの島国の人らしさを何も考えず無私のようにこころを落ち着かせてとらえるんだ。子供の頃、理性など重んじなかった頃の心でさかのぼってとらえるんだ。そこから私達の共通の価値観なりを救い出すほかはない。知性と感受性がないと難しい至難の作業にはなるが。もう一つのやっかいさは私達が言葉によって共通の価値観を表さなかったことにもある。面白いことは対外国のニュースなりで自国の話が出ると、あまり詳しく分析なり本なり読んでいない人が突然に無意識的に「日本は島国だからね~。」と言う。意識的に言わない非常に感覚的に。知ってるか知らないかの狭間の意識なのだろう。しかし、こういう彼らの方が学者なり芸術家の連中よりも私は賢いと思う。
言葉の意味の発生
言葉の発生を受けて、二人以上の人によって意味を編むんだ。そのある語を言う度、使用すればする(その言葉をどういう状況で、どういう文構成で)ほど意味は明確になり、その中核の意味へと結晶する。この世に生まれおちた自分を想像したらいい(赤子の時を)。まだ何も(発音、意味、文字)も知るわけがない。親なり近所なりテレビなり本なりであらゆる人達と聞き、見て、話して言葉を自分が手にいれていく。会う人達が個々人でまったく同じ人間に会うわけないから知識(言葉)なり身に付けても、やはり差異が生まれるのだ。意思伝達できないと思った時の理由が決して無知であることではない。お互いに細かい意味においては勘違いの暗黙の了解をしているんだ(変な話、当の本人は気付かないが)。それだけに言葉の意思伝達能力は万能なものではない。しかし、その細かいなりの差異によって時代で言葉の意味が変わってゆく。言語学者がいう「言葉は生き物」とはこういうことだ。昔話なり伝説が細かに変わるのはこの影響は否めない。同時代でも身近な噂話で変わることはある。
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