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真面目に変わっている人の考えている事
日頃、疑問に感じた事を自分なりに考えて書いていきす。浅学ゆえ多々至らない点があるとは思いますが、一緒に考えたり、間違いをご指摘されるとありがたいです。まずはカテゴリーの「はじめに」を。
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昔から変わらぬ、この島国の物と島国の人の共通性
 この島国から作られたすべての物(芸術、会話、行動、建物などすべて)、この島国で行うすべての生活は必ず私たちの共通の癖がある。
 例えば現在はロボットにしてもこの島国は人型が多い(機械と人との調和)、歌舞伎における舞台で観客との間に役者の通り道の舞台がある(役者と観客との一体化)、日本語の文章(漢字、ひらがな、かたかな、英語との混ぜた文章)、今の歌はさびだけ英語で他の部分は日本語だったり、演歌は音が強音から徐々に弱音へとゆるやかだ(いきなり高音から弱音とはならない)。顔立ちは一部のパーツが主張することもない。平面的なのである。女の人の体は胸が小さいとか男の人の性器が小さい。体のあらゆる部分が特に目立つことがない。(体の各部位への変化が極端な線がなくゆるやかな曲線といえる)、建物は昔は木造で畳などである(自然との調和)。アニメ、漫画の登場人物は平面顔で立体的ではない。お洒落はメーカーがはっきりわかる物は好まない(その部分だけ目立つ可能性があるので)。目立つ服装は好まない。自然に見える風合いの服装(新品に見えるより何年か着た物、見える物)音と無音の対比において言葉を発音することを好まない。(音がないということで音のない無音の平坦な時間、空間)、それゆえ無音ということにおいて沈黙的美がある。漢字で表す一つの特定の言葉に意味が曖昧でそれゆえ議論ができない。議論が組み立てる知的作業なので互いの性格がぶつかる予感からか議論は好まない。互いに良い人と判断したり、良い人とするから悪口は好まない、トラブルが起こると初めに自分が悪いと互いに反省したり、武力でなく話し合いで事が解決すると信じている。つまり争いを避ける、事を荒立てない。決め事はみんなで決める。言い争いがおきると誰かが止めにはいることが多い。それゆえか温厚な人が好まれる。一人の意見は重んじない。一人で決めるのは傲慢と考える。誰の意見(方向性が違う意見さえ)でも理解して、みんなの意見を反映させようとする。物をもらう時は互いに遠慮する。(すんなり、ぱっとしない。共同作業。)個人名は重んじないので数人で集まった組織団体名を重んじる。(団体との調和)、大抵、個人名より家族の苗字で呼ぶ(一族との調和)。先祖を尊敬し、今生きる者は長幼を重んじる。(社会的調和、治安の良さ)
 すべての物、行動に言えることは切れ目が自然に移ろいゆくゆるやかな調和と美意識だ。
 この同じ性格(行動パターン)はどのように形成されるか言葉というものでわかる。どんな人だろうとこの島国で誰もが使う。今、現在、話している言葉は島国で生まれながら島国に現在住む人とあなたの親なり会ってきた人の繋がりによって話している。それなら、今の自分の親の世代は、そのまた親達の世代と、またその親達と間断なく親達へと島国の歴史上の人達全体をさかのぼることができる。つながりがあることがわかる。縄文時代やそのまた昔から一緒に作ってきている。同じ言葉を使うということは同じ感情を共有しているのである。言葉が時代で読み方、意味が多少変化するにせよ、変化する根底にある感情はつながっているのだ。自分一人では生きていない。自分一人の感受性とは言えない。
 このことをなかったと否定するのは私たちの個人的な人格否定に他ならない。自分個人の生きてきた人生という名の歴史の否定に他ならない。島国に生まれ育った人達と育んできたもの全否定にも繋がる。なぜそんな性格なのか?島国だからだ。海に囲まれているからだ。他民族(他者)を意識しないことがこの特徴をつけることになった。しかしこれをどうやって守りきれるか?私達の自己を通せるか?
 他の国では昔は王族が大陸を国境をここまでと互いに線引きして、そこに住む王とその国民達で同じ法、同じ道徳を守り、同じ生活空間を共有して感受性、思考、価値観、言葉と共通の物をつくっていく。
 この島国では私たちの島国社会での天皇は一番外枠の世界なのである。頭にある一番外枠なだけに空気のような存在で重要性がわからない。私たちの自己を守るためには天皇がいなけらばならない。しかし、他国的な国境的な役割とも言いにくく島国だけに国民が他国を意識しずらかっただけに崇拝することによって成り立っている。天皇をなくさないこと、それが今ある自分自身の存在(歩んだ人生、あなたやみんなの存在、過去の島国の歴史)の肯定にもなりうるのです。
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一読を
▲ 女性・女系天皇「三笠宮家も憂慮」

寛仁さま、雑誌でご発言 [2006年01月19日 産経新聞東京朝刊]



 政府が女性・女系天皇を認める皇室典範改正案の通常国会提出を目指していることについて、歴史・伝統に根差さない皇室典範改正を批判している寛仁親王殿下が二十四日発刊の団体機関誌で、

「三笠宮一族は、同じ考え方であるといえる」

と、父で昭和天皇の弟宮である三笠宮崇仁親王殿下と母の百合子妃殿下も同じ意見であることを明らかにされていることが十八日、分かった。



 保守系の民間団体「日本会議」(会長・三好達元最高裁長官)の機関誌「日本の息吹」二月号で、小堀桂一郎東大名誉教授のインタビューに答えられた。題は「皇室典範問題は歴史の一大事である-女系天皇導入を憂慮する私の真意」。



 この中で寛仁さまは、三笠宮さまが昨年十月、宮内庁の風岡典之次長を呼んで、皇室典範改正に向けた拙速な動きに抗議されたことを紹介。



 寛仁さまはまた、皇室典範改正について「郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だ」と指摘。

自身のご発言に対し、宮内庁の羽毛田信吾長官らが憂慮を表明していることに関しては「私がこういうインタビューに応じたり、かなり積極的に発言しているのは国家の未曾有の大事件と思うので、あえて火中のクリを拾いに行っているようなきらいがあります」と述べ、相当の覚悟を持って臨んでいることを強調されている。



 寛仁さまは昨年、自身が会長を務める福祉団体の会報に、私見として女系天皇に異論を唱えるエッセーを寄稿。月刊文芸春秋二月号でも政府の「皇室典範に関する有識者会議」の拙速な議論を批判されている。



皇室典範改正 寛仁さまご発言要旨 [2006年01月19日 産経新聞東京朝刊]



 もしも、この平成の御代で歴史を変える覚悟を日本国民が持つならば、慎重の上にも慎重なる審議の上行っていただきたい。失礼な言い方ですが、郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だと思っています。



 典範問題は単純な政治問題ではなく、日本国の歴史が変わるか否かという大事と理解しています。遠慮なく皆さんの前でも発言するべしと現在は思っていますが、ひとたび法案が国会にかかってしまえば、皇族は政治的発言を封じられてしまっているわけですから、私は何も話せません。



 これは絶対にあり得ないと私は思いますが、色々な人に聞くと、「これは陛下のご意思である」と言っている人がいるそうですね。

陛下のお立場でああせよ、こうせよとおっしゃるわけがない。(女系だとか長子優先だとか)具体的におっしゃるわけがないということは声を大にして言っておきたい。



 本当は、私が発言するより皇族の長老である父に口火を切ってもらいたかったわけです。母の話では、父は宮内庁次長を呼んで、あまりに拙速な動きについてクレームをつけているということでした。

これは去年の十月ぐらいの話です。それから「お袋は女帝・女系になったら大変なことになること、わかっているの」と聞いたら、「もちろん大変なこと」だと言っていました。その後、父が年末に来たときに、「いいことを言ってくれたね」と、一言いって、さらに『八人の女帝』(高木きよ子著)という単行本を「読んでおいてほしい」と持ってきて、それから月刊「文芸春秋」一月号に工藤美代子さんがお書きになった論文を、「私の意見はこれと同じである」と、娘の分までコピーして持ってきてくれました。

三笠宮一族は、同じ考え方であるといえると思います。



 本来、われわれ皇族は黙っていないといけないということだと思いますが、にもかかわらず私がこういうインタビューに応じたり、かなり積極的に発言しているのは国家の未曾有の大事件と思うので、あえて火中のクリを拾いに行っているようなきらいがあります。

 やはり民主主義なるものは「民」が「主」と書くわけだから国民一人一人がしっかりした、確固たる意見をもって、それが大多数を形成して議会政治として実を結ぶということが原点だろうと思います。

ところが、あまりにも今、皇室、あるいは皇室典範に関する情報というものが、皆さんお分かりになっていなくて、女帝と女系の違いも分かっていないような方々が多い。



 皆さんが考えに考え抜かれたうえで結論がAになろうがBになろうが、われわれにはそれに反対する理由はありませんが、もし情報がゼロの中で〇か×かとやられたらたまりません。

この記事はできるだけ広く読まれて欲しいし、真剣に(日本会議の)メンバーの皆さん方が考えてくださって、また周りの方々に広めて運動体にしていただいて、本当の世論を形成していただきたい。 ▲

色白
色白について思うことを書く。欧米人の色白(いわゆる白人)は寒い時や何かで運動なりしている時は肌に赤みがある。その表れ方がいかにも立体的なものを感ずる。とともにいかにも生きた生き物という感じを受ける。この国の色白な人は寒い時や何かで運動なりしている時はピンク色っぽく色白さが保たれている。その白さが皮膚という感じがしなく血管さえわからないほどの透き通るような白である。生き物という感じがしない。自然的な、いかにも自然にある霧のごとくものを感ずる。人と自然との一体という印象である。私は見ていると神秘的な心地良い感じになる。
判官贔屓とは?
 私たちの国に判官贔屓とは、はたしてあったのだろうか?辞書に「弱者に対する第三者の同情や贔屓。」とある。ネットで検索していると、熱く語っている人の結論が弱者の人たちが強者を貶めて病的平等にしようとするもので、社会主義者だと断定した話になっていてあきれてしまった。
 私が「ああそうだ。」と感じた人がいる。その作家は言う「この国に判官贔屓はなかった。」と。判官贔屓に見える人の共通にあるのはある特定の一つの信念(大義、思い)なりである。そこに行動の理由はただ一つで、それ以外の理由はないという心情である。
 ならばどうしたらそれは周りの人に伝えられるか?成功、勝利より失敗、敗北することだ。成功、勝利する人では思いがあったとしても自分をかけずに計算高くやったかもしれないという思いははずせない。しかし、逆の失敗、敗北は第三者に失敗、敗北することによって心情が確実にわかるのである。
 これはこの国の人たちがこの行動の理由の「純粋さ」に心を打たれるのだ。これはこの国、独特の心のあり方といっていいようだ。この作家は今は生きていない。生前に西洋文化にかぶれてもいいが、この独自の精神を誇りにして生きろと言った。この作家の言葉を聞いて、あなたはどう感じる?
「自由とは?」のお詫び
たまたま、ある評論家の読んでしまったを本をどの個所を見るともなくページを開いて2,3ページを読むと、私の見方と書いた自由については書いてあった。実に驚いた。私の傲慢さをたしなめられたようだった。
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